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大和田:「増富には私も何回もうかがいましたが、標高1,000 メートルで、日本百名山の瑞籬山(みずかきやま)の麓、カラマツ林や渓流のある、自然豊かな場所ですね。また、花豆が特産で日本の里山の原風景が残っている場所です。人口は現在約600人。昭和30年代の最盛期は約2400人だったそうですが、今では高齢者人口50%、耕作放棄地は農地全体の2/3を超える、典型的な限界集落ですね。増富は、昨年朝日新聞社が選定した「日本の里100選」にも選ばれています。
その選定の理由は、景観もさることながら、えがおつなげてによる限界集落の再生にあるとお聞きしています。増富ではこれまでに、中山間地域の耕作放棄地3.5haを開墾して農地に戻したそうですが、どのような方が開墾されたのでしょうか」

曽根原:2003年から、NPO法人として、農場運営を北杜市須玉町増富で行っています。既に何年も前から限界集落になっている場所で、全国的に見ても、耕作放棄地が非常に多い。耕作放棄地率は全国で一番なのかと思います。3分の2が耕作放棄地です。このような状況になった原因は、担い手がいないことです。耕作放棄地を耕してくれる担い手をつくる必要があると。最近、農村で農業をやってみたい、田舎暮らしをやってみたいという人が増えていたので、そういう人にボランティアベースで入ってもらい、開墾をしてもらいました。

2003年~2005年にかけて、年間何百人もボランティアがやってきました。凄まじかった。えがおつなげてが管理している温泉施設あるのですが、ボランティアの館と化していました。ほぼ人力の開墾で、3年間で3haの耕作放棄地がすべて畑に戻りました。耕作放棄地の半分は木が生えているレベルの土地ばかりでした。すすきを刈って、抜根をして、つるを全部除去して、トラクターをかけると、ようやく農地になる。

私も1995年に移住してきて、自宅の近くの白州の農地は、自分で開墾して畑にしましたから、開墾ノウハウたるやすごいものがありますよ。
10年、20年放棄されると木が生えてきます。そういう難易度のものから、ちょっと草が生えてきたレベルまで。
当初増富ではそのようにして農地を増やして、現在はNPOの農場としては、4.5haになりますね。えがおつなげては、もう増富では豪農になりましたね。大半が耕作放棄地だったところです。個人で始めた白州の農地も、5年後には2haになりましたね。
白州の農地の開墾は、一人でやりましたよ。6月の、日の長い頃になると朝の3時半くらいに起きて家族を起こさないようにそーっと出て行って、畑で夜を明かしていました。草を刈って、木を切って、抜根して…そうやっていると朝も明けてくる。5時くらいになると周りの農家さんもそぞろ歩きを始めるんですが、お前は朝から何をやっているのか、そんなことやって何になるのか、と思われていました。でも健康バブルの解消には、これはうってつけでした。一人で楽しみながらやっていましたからね。当時はまだ経営コンサルタントをやっていましたから、東京に自分の会社を置きながらだったので、そちらの収入もあり、すぐに返さなければいけないお金などというのもありませんでした。朝の3時半から、夜の8時半まで畑にいて。朝9時くらいになると、奥さんが心配して迎えにきて、「そろそろ朝ごはんたべなきゃだめよ」と。いろんなパターンの開墾をやりました。今でも思い出すのは、木は生えていないのですが、田んぼ中が石だらけ、という耕作放棄地。前の地主さんが、田んぼの土地に池を作って鯉を飼っていたらしいんですよ。穴を掘って石を入れて。それを田んぼに復活させましたからね。

ひたすら石運び。

でも石は子ども生まないから、楽ですよ。木や草はすぐにまた生えてきちゃいますから。

西辻:僕らのところは住宅だったところもあるので、めちゃめちゃ大変ですよ。いろいろ出てきます。地主さんにやってくれ、と言われると僕らは「やります」と答えます。石撤去代みたいなものをもらわずに、何とかやっています。今この瞬間も、畑の方では石を拾っていると思いますよ(笑)。

僕らもいろいろ工夫をしなきゃということで、ユンボの先に網のようなものを付けて、ざざーっとふるって石を取り出そうとしているんですけど…でも、やっぱり細かいのはとれないですよね。

大和田:「曽根原さんのところは、最初は個人のボランティアだったところが、企業や和菓子屋さんが借りたり、企業がCSR活動で参加するというものもあるようですが、それはどのように始まったのですか?」

曽根原: 増富での開墾を始めて、最初の3年くらいは個人のボランティアが開墾していて、参加してくれたボランティアの一部がスタッフになって、増富に移住してきて、一緒に活動を始めました。 その上で、もうひとつのことを始めたんですね。今度は企業が、この活動に参加してくれるようになったんです。企業としては、いろいろなニーズを持ってくる訳ですが、 最初来たのは、食品会社でしたね。洋菓子屋さんとか、和菓子屋さんとか。今から5、6年前ですね。 ちょうど「冷凍餃子事件」(編集部注:中国・天洋食品製の冷凍ギョーザを食べた千葉・兵庫両県の10人が中毒症状を訴え、2008年1月30日、農薬成分メタミドホスが検出されたことが表面化。中国側は当初「中国国内で農薬成分の混入はない」としていたが、4月、天洋が回収したギョーザが転売され、中国でも被害があった。)が起こったときで、あれを皮切りに、食品の安全安心という欲求がとても強くなって、食品系企業、良心的な企業は、そういうニーズに応えていこうと考え始めたんですね。 そんな中で洋菓子屋さん、和菓子屋さんの経営者の方と出会う機会がありまして。自分たちで安全安心な食材を作って、その誇れる食材でケーキや和菓子を作っていきたいと。 そこで、私が「じゃあ開墾やってね」と提案したんです。 開墾して、その復活した農地で、農作物を作り、その素材でケーキや和菓子をつくってはどうか?と。 ここでのもうひとつのインセンティブは、10年や20年放っておいた農地というのは、残留農薬はゼロだということです。 そこの社長さんは「これはいいな」と奮い立って、社員がみんなで開墾に来ました。 開墾後は、和菓子屋さんでは大豆、ケーキ屋さんではサツマイモ、カボチャなどを育てます。これは全部、ケーキの材料になりますからね。 企業、地域、NPOの連携で生産し、それを買い取ってもらっています。 企業の皆さんには開墾から入ってもらうというのが掟ですね。 企業の経営者も、この取組には社員研修という意味も感じていて、自ら作っている食品の原材料である農産物のことを知らないといけないと、考えているようです。

それから企業の皆さんからは「社員が元気になりました」という声がありました。 開墾作業を通して社員さんのコミュニケーションが活発になって、元気になりました、と。開墾活動の効果だという人が多いですね。 私が個人でやってきたことを、みんなで感じてくれたらうれしいなと。 開墾を始めるとね、気になって朝起きちゃうんですよ。 あそこの切り株を抜かなきゃとか、あそこのつるをどけなきゃとか。

西辻:曽根原さんにとっては、開墾は戦略的にやってらっしゃるんですよね。

曽根原:戦略的というほどでも…
でも、手順とかはありますよね。最初に木を切って、それを除去して。 一人でやっていますから、株を抜くのにも、一度トラクターで引っ張ってみて。うーん、まだぬけないなと、もうちょっと掘ってみるか、と。

当時、奥さんが畑にくるといつも「早く仕事しなさい!」と言われたんですよね。 「これが仕事なのにな」と。今、奥さんにそれをいうと「そんなこともあったわね」という感じですがね。 一人開墾、楽しかったです。「無心になる」というのはいいですね。 開墾を体験した人が言っていたんですが、開墾は無心になって、自分と対話ができる。 東京だとそういう機会が持てない、と。

西辻: マラソンとか似ていますかね。
走っていて、疲れてくると走馬灯のように思い出とかが蘇ってくる。
僕、曽根原さんととても近いことがあって。これ、今日始めて話すんですが、マイファームを始める前、ぼくが「京都在住の西辻一真さん」だったころ。 耕作放棄地を耕す若者、っていうことで、『日本農業新聞』にちょこっと載ったことがあったんです。 寂しがりやなんで、3人でずっと、耕作放棄地を開墾していたんです。草刈って、手押し耕耘機で。 農家さんに何をしているの、といわれながら。 あるとき、農家さんに「農園みたいにして」と言われたんですよ。 ホームセンターに、ガーデニング用に売っている柵を買ってきて、それで手で区画作りをしたんですが、測らずにやっていたので、うねうね状態になって、農家さんに「これじゃだめだよ」と言われたりして。いちばん最初の耕作放棄地は田んぼだったところで、柵がずぶずぶ入っていってしまって。 木の柵だけで50万円くらいかかったんです。その柵で一反の畑の周りを囲んだんですよ。

一瞬辞めようかと思いましたね(笑)。

曽根原: 昔、自給農業とともに自給林業もやっていましたね。5年経った段階で、自給林業も数ha規模になったんです。この辺りには5000~6000件の別荘があるんですが、私のように、薪ストーブを入れたけれども、薪の調達に不安を持っている方がたくさんいましたから、薪を売ったんです。 300t売りました。配送料も頂いて。

曽根原: ストーブ用の薪としてはナラ、クヌギが一番よい品質のものなんです。それが生えている山を買ったんですが、間伐していると、それ以外の木もでてくるんですよ。桜とか、栗とか。その頃、ガーデニングブームがやってきて、別荘の人たちが芝生だったところをはがして、柵を立てて、小さい農園を作り始めたんです。栗って腐らないんですが、そういう木の特性を知らない別荘の人たちが、最初は薪の木とかを使って柵を作っていたみたいなんですが、2年くらいで腐っちゃうんですよ。

そこに持っていって「栗だと大丈夫ですよ」と言って売っていました。

桜の木は、とても香りがいいんですよ。薫製のチップに最適なんです。だから薫製用のチップを作って売っていたんです。

西辻:商売上手ですね。
その柵を買う50万円を捻出するために、僕らはホームページのデザインなどが出来たので、 そこでお金を稼いで食いつないでいました(笑)。

曽根原:半農半デザイン、ですね(笑)。